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第960話

Auteur: 宮サトリ
「医者が来たか確認しろ。まだなら電話して急がせろ、すぐにでも来させろ!」

弘次の声に、澪音は背筋を震わせた。

「すぐに来させろ」という言葉まで出たのは、彼の怒りが極限に達している証拠だった。

澪音は一瞬も迷わず、慌てて部屋を飛び出した。

「はい、すぐ確認します!」

弘次は昏睡した弥生を見つめ、その額ににじむ冷たい汗をハンカチでそっと拭った。

拭いながら、弘次の顔は暗く沈んでいった。

唇の色すら失った弥生。

その姿を見つめるうちに、弘次の胸に初めて芽生えた思いがあった。

無理に彼女を自分の傍に縛り付けることは、間違いだったのではないか。

彼女は自分を愛していない。

それでも、友人としてなら共にいられたはずだった。

なのに今、二人の関係はなぜこんな形になってしまったのか?

どうしてこうなった?

自分はただ彼女を好きになっただけなのに。

幼い頃から、家庭の事情で誰も信じられなかった。

誰にも心を許さなかった。

そんな自分の前に現れたのが弥生だった。

彼女が希望を与えてくれた。

だが、その希望は決して自分のものにはならなかった。

もし彼女があのとき自分を助けてくれなければ。

そうすれば、自分はこんな望んではならない夢を抱くこともなかったのに。

弘次は弥生の額の髪をそっと耳にかけ、布団を掛け直した。

「少しだけ待っていろ。もうすぐ医者が来る」

その時、扉が開き、澪音が医者を連れて入ってきた。

「弘次さん、先生をお連れしました」

現れたのは前回と同じ医者だった。

彼は驚いた様子もなく、あらかじめ予想していたような顔をしていた。

「今回はどういう状況ですか?」

ベッドに横たわる弥生を見てた医者の顔色が変わった。

「......意識がない?」

思っていたよりも事態は深刻だった。

前回診たときから、また呼ばれるだろうとは思っていた。

だが、ここまで早く悪化するとは想像していなかった。

険しい顔で近づきながら問った。

「どういう経緯で倒れたんです?」

弘次は冷たい目で彼を見つめたまま答えなかった。

仕方なく医者は澪音へ視線を向けら。

「倒れる前に、何があったのですか?」

澪音は慌てて、弥生が食事を受け付けず吐き戻してしまった経緯を説明した。

医者は話を聞き終えると眉をひそめた。

「思った以上に心のしこりが
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